2018年第4

巻頭言 

 

『人との関わり』

 

                    大宮中央総合病院 鈴木雄貴

 

 私は人見知りの為、知らない人ばかりがいる環境に飛び込む事が苦手である。そのため学生の時からなかなか自分のコミュニティの外に出る事ができなかった。しかし、1年半前から第六支部の役員を務めることとなり、最初は他施設の方と仕事をすることにとても不安や緊張を覚えたが、結果としてこの経験は私のこの先の技師生活の中でも貴重な経験になり、また人との関わりについて考えさせられた。

 

役員の仕事を始める前は、他の役員の方はバリバリ仕事をしていて仕事に厳しく怖い人達ばかりだと思っていた。しかし、いざ一緒に仕事をしていくと皆さんいい人達ばかりで慣れない私に優しく声をかけてくださったり、自施設では経験できないような検査や経験の話をしてくださった。また、当直中にこんな患者さんが来た時にどうしていれば良かったのかなどの悩みを聞き、熱く親身にアドバイスをしていただいたこともあった。このようなこともあり、自分自身もっと仕事を頑張らなければと思う良い刺激となった。他施設である私に良くしてくださる皆さんの人との関わり方を、見習わなければならないなとも思い、またなかなか自施設の中だけでは得られないものもたくさん得ることができた。

 

急激に人見知りが治り、色々な人に話しかけることやどんどん前に出て意見を言っていくことができる訳ではない。しかし、人見知りをしながらも新しく他施設の方と知り合いになり納涼会や忘年会の場で話せるようになることで、今までは出来なかった技師同士の横の繋がりができお話をするのも楽しいものだと思えた。自分が苦手だからといって新しい場に飛び込まないということは、人との関わりができない事や支部役員を経験し得られてきた知識を吸収できなかったと考えると、それは損をしていたかもしれないということに気づかされた。支部でも県の技師会でも、これらは只の職能団体だけというわけではなく技師同士の関わり、人との関わりを作ってくれる場でもあるのだなと思ったが、これも実際に役員をやらなければ気づくことができなかったであろう。今回第六支部の役員を通して人との関わりを改めて考えることができたので、今後はそれを活かして診療放射線技師として成長していければと思った。

 

2018年第3

巻頭言 

 

茶道から学んだこと

 

                   埼玉県立がんセンター 菅野 みかり

 

 就職してからあっという間に月日は流れ、今年で8年目となった。診療放射線技師としてまだまだ未熟だが、仕事にも徐々に慣れ、プライベートをさらに充実させるべく稽古事を始めたいと思い、茶道教室に通い始めることにした。茶道を選んだ理由は、以前から抹茶が好きで、いつかは本格的に茶道教室に通いたいと思っていたが、なんだか敷居が高く憧れのまま踏み込めずにいた中、近所に茶道教室が新しくできたからだ。これも何かの縁だろうと思い電話したところ、無料で体験できると言われ、これなら気軽に行けると思い、まずは茶道体験に行ってみることにした。

 

茶道について簡単に説明すると、茶道とは伝統的な様式にのっとって客人に抹茶をふるまう事で、千利休が現在の茶道の原形を完成させ、利休の死後、大きく分けて「千家」「武家」の二つに流派が分類された。「千家」の中の「表千家」「裏千家」は特に有名だと思うが、前者が本家筋、後者が分家筋なだけで基本の作法はほぼ同じらしい。私は「表千家」だったが、「裏千家」の方が国賓が来た際に点てられたりするので、海外では特に主流だそうだ。

 

茶道を体験してみて、感想を一言で述べると茶道は相手を思いやる気持ちが大切だということだ。例えば、「お菓子をどうぞ」と声をかけられてから手を伸ばし、隣の方に対し「お先に」と一声かけてから自分の分を取る。そしてお菓子を箸でとったら紙でふき取ってから隣に回す。これらの作法は、次の方への配慮のためにある。数限りなくある作法には一つ一つ意味があり、それら全てに相手を思いやる気持ち、おもてなしの心を強く感じた。そして、体験終了後、なんだか心が落ち着き、清められた気がした。

 

仕事が忙しくなると、スピードや効率の良さを重視して相手を思いやることができなくなってしまうことがある。短期間では仕事や実生活に反映させることは難しいかもしれないが、今後茶道教室に長く通うことによって相手を思いやる気持ちが自然と身に着けられればいいなと思った。仕事だけだと疲弊する一方だ。今後は積極的にプライベートも充実させていきたいと改めて感じさせられた出来事だった。

 

2018年第2

  巻頭言 

 

待たされる身の気持ち

                          

指扇病院 安川 紘平

 

昨年を振り返ると、個人的には何かと病院に行く機会が多い年であった。元々病院にかかることが嫌いで、病院を受診するときには症状もそれなりに悪化していることが多い。昨年も待合室でいつ呼ばれるかもわからないなか、激痛をじっと耐え忍んでいた。病院嫌いの一番の理由は、きっと『待ち時間』なのかと思う。今でこそ診察室の扉の上に、待ち時間が案内された掲示板が設置されている施設も多くなったが、それでも、症状がでる→病院に行く→診察→検査→治療・処方→会計と一連の流れの中で、待つことに費やされる時間はかなりの割合を占めていると感じる。そんな“待つ”ことが嫌いな自分であるが、この時に比べればたいしたことではない、と感じた出来事がある。

 

 いまから2年くらい前になるが、父が突然、救急車で運ばれることとなった。いろいろな事情が重なり、結果として自分が勤める病院に運ばれたため検査に立ち会ったのだが、このときのMRIの画像が出るまでの残り数秒ですら、とてつもなく長い時間に感じたことを覚えている。その後、大学病院に転院搬送され、緊急手術を受けることとなったが、その時もまた、ただ待つことを強いられた。そんな中、頭のなかを不安…疑念…疑心…後悔…ネガティブなことがいくつも、そして何度も繰り返し過り、今までに経験したことのない苦痛を味わった。

 

技師は、普段の業務ではあまり家族の苦痛を知る機会は少ないのではないかと思う。自分は父の出来事が考えさせられるきっかけとなった。家族の立場に立った時の、待たされる体感時間の違いも痛感させられた。そして、救急・急患患者の対応への意識は明らかに変化したと思う。しかし、その一方で、こんなことは一個人がどんなに頑張っても小さな事と感じることもある。

 

昔は自分だけが一つ秀でた存在になることが理想と想っていた。上司に「お前がいないと検査が回らなくて大変だよ」なんて言葉は、最高の誉め言葉と感じていた。でも、本当に病院に必要な人材は、『自分がいなくなっても変わらない』病院をつくることが出来、『自分がいることで病院が変わっていける』存在なのではないだろうか…。

 

 もし、自分の子供が救急車で運ばれようとしているとき、自施設に連れてきてもらいたいと言える技師さんはどれだけいるのだろうか…と興味を持った出来事でした。

 

 

 

 

2018年第1

巻頭言 

 

                  上尾中央総合病院 仲西一真

 

私は常日頃、業務に関して1つ疑問を抱いている。

 「新人に雑用をさせるべきか」

 皆さんの施設では、新人に雑用を任せているだろうか。

 

当院では、業務時間内に掃除・検査着補充をはじめとする雑用を新人が行う光景を当たり前のように目にする。それは一見おかしいことではなく、むしろ当たり前ではないかと感じる人も多くいるだろう。そう感じるのも無理はない。仕事だけに関わらず、学生時代の部活動などでも新人が雑用を行うことが当たり前。多くの人がこうした経験を経て生きてきたため、そう感じさせるのだと思う。しかし、私は新人に雑用をさせるべきではないと考える。新人であるうちは、雑用を行うことよりも業務の経験を多く積ませることの方がとても重要である。業務時間を雑用に要する時間に充てるくらいならば、撮影室に新人を付きっきりにし、少しでも経験を多く積ませる方が新人教育の理にかなっている。

 

あるラグビー強豪校では、上級生が雑用を行っているそうだ。グラウンドの整備・練習後の後片付けといった雑用を上級生が行うよう、監督は指示をする。なぜだろうか。理由は、下級生に余裕を持たせるためだそうだ。新しい環境でストレスを感じることの多い下級生ではなく、心に余裕がある上級生に掃除・雑用をさせる。そのため、下級生が最初にグラウンドを後にする。そうすることで、下級生には練習時間が生まれる。また、普通なら嫌がる雑用を率先して行うことで、下級生に優しくしようといった心の余裕が上級生にも生まれる。下級生もその姿を見て学ぶ。チーム全体のことを考え、監督はこのように指示するそうだ。

 

我々の仕事においても同じではないだろうか。当たり前のように新人が雑用を行うのではなく、上位技師が新人のことを思い掃除・雑用を行う。新人もそれに対し敬意を払い、業務に臨む。そうすることで、科内全体の技術向上だけではなく、より良いチームとして科内が生まれ変わるのではないだろうか。